2013-08-29 心理・カウンセリング

罪悪感その3

とくに罪悪感関連の記事が好評で、励ましのメールやもっとこのシリーズを続けて欲しいといった要望があるわけですないのですが、このテーマについては語っても語りつくせないものがあるので、今回も続けます。

「沖虚真経※」には、「善行に対する警告」というものがある。楊朱いわく、「善行をおこなう者は、名声のために行うわけではないが、名声は自然についてくる。名声は勝利とは関係ないが、勝利もついてくる。勝利は争いとは関係ないが、争いのとき味方する。それゆえ崇高な人は善行をおこなうよう心がけるのである」。

悪行を排して善行を心がけよという誰もが信じて疑わない基本的主張に疑問を投げかけろというのは、大変な要求にちがいあるまい、それまでの基準に固執すれば、不安がわきおこるのも当然だ。

それでもなおこのテーマをもう少し論じて、あらゆる側面からものごとをながめたい。

罪の解釈の誤りは、キリスト教文化に深く根ざした世界観のもとになっていて、西洋人の心は想像以上に強く結ばれているのである。ほかの宗教ではこの問題はそれほど大きくない。

ヒンズー教の最大主神をなすブラフマー・ヴィシュヌ・シヴァのなかでは、シヴァが破壊を受け持ち、建設者であるブラフマーに拮抗する。このように描写すると、必然的な力関係が理解しやすい。

仏陀については次のような話がある。若い男性が仏陀のところにやって来て、弟子にしてほしいと頼んだ。

すると仏陀は言った。「盗みをしたことがあるか?」。

男は答えた。「盗みなどはたらいたことはありません」。

仏陀は言った。「それなら行って盗みをしてくるとよい。それができたら、私のところに来なさい」。

禅仏教の最古の経典でおそらく最も重要な《信心銘》の二二節に「正と誤の何たるかが少しでもわかるなら、人の心は混乱して破滅する」とある。

両極性を二つの極に分割するものは《悪》だが、洞察のためになくてはならない。ふたつの極がないと認識できないからである。

そして、両極間の緊張を、単一性に到達するための推進力として利用しなければならない。

人間は罪深いが、罪は自由のあかしであり、罪こそが人間をなしているのである。

みずからの罪を受け入れ、罪に押しつぶされないようにすることは重要だ。人間の罪は形而上学的なもので、行為に起因するわけではない。決定して行動しなければならないという必要性をもっていることが、すでに罪のあらわれである。

罪があると認めれば、罪になるのではないかという不安から解放される。

不安は狭量なので、拡張を妨げる。必死になって善行をしても、共存している対極を押しのけるばかりで、罪から逃れられるわけではない。

善行によって罪を排除しようとすれば、不誠実になるのである。

※沖虚真経(ちゅうきょしんけい)とは、列子と呼ばれる道教の経典の別名です。

いきなり難しい文章を転載しましたが、これは以前も紹介した「病気が教えてくれる病気の治し方」というドイツで数百万部売れているベストセラー本からの抜粋です。

罪悪感その3を書こうと思うに当たって、本来の自分が望んでいることに反することが、どれほど体に悪い影響をもたらすかということを書こうと、参考にするために手に取り、なにげに開いた箇所に偶然書かれていました。

この本には、病気はすべて心のバランスが崩れたときに教えてくれるシグナルであって、その病気ごとにどういった心の状態になっていて、それをどうすれば改善できるのかということが書かれています。

巻末には病名別の索引があり、逆引きが出来るようになっています。

この文章を僕なりに解釈すると感覚や経験などの世界から離れて罪の存在を受け入れることで、窮屈な世界から自由な世界へ移り住むことができ、病気の原因になるようなものとは無縁になるといいたいのだと思います。

世界中に蔓延している性に対する固定観念は、キリスト教による影響がとても大きいと思います。

それを信じることで、自分の心のバランスが保たれるのであればいいでしょうけれど、信者でもないのになにげなく植えついた固定観念に縛られて、がんじがらめになってしまっている人にとっては、もっと高い視点から物事を判断して欲しいと思います。

いつも言っているように小説の中の登場人物のレベルではなく、作者の視点で考えるということです。

罪を犯したくないと誰もが思うでしょうけれど、なにかを決めて行動すること自体が、すでに罪を犯しているという考えになれば、自分の中の罪の意識の境界線はあいまいになります。

そもそも生きているなかで白か黒かという分けれるような境界線など存在しません。

人間が自分たちの都合のいいように定めているだけだということを理解するべきです。

100人いて100人が納得できる境界線など作れるわけがないので、どうしても越境してしまう人が出てきます。

僕みたいに越境することに快感を覚える人間ならいいのですが、ほとんどの人は真面目なために罪の意識を感じてしまうのです。

僕たちは枠の中で生活するために生まれてきた訳ではない筈です。枠はあくまでもそれを活用すれば便利だというだけで、それに捉われる必要はありません。

自らかごの中の鳥として生きたいという人であるのなら、それはそれでいいとは思いますが・・・。

2012〜2013年のYahoo!ブログ掲載記事。『集客の書』収録版から復元。
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